皆さん!
 

人生で何か一つ、あなたの運命を決定づけた瞬間を思い出してみてください。
 

私にとって、その瞬間は「一本の電話」でした。
 

この電話が、私を日本語の世界へと導いたのです。
 

それは大学2 年生の夏休みに日系企業でアルバイトをしていた時の出来事でした。ある日、アルバイト先の事務所に、り∼んり∼ん と、運命の電話のベルが鳴りました。
 

その日、事務所には私一人。“どうしょう、どうしょう”と、緊張でからだが震える中、じっと電話を見つめ、どきどきしながら、恐る恐る受話器を取りました。
 

それは日本からの電話でした。私は戸惑いながら「喂、不好意思、他們都不在。」と言うのが精いっぱいでした。ぼーっとしているうちに電話が切れる音が聞こえました。わたしはほっとして、胸を撫でおろしながら、ゆっくりと受話器を戻しました。
 

その晩、家へ帰ってから、母にお願いしました。

「お母さん、日本語を教えて∼。」

「いいわよ。どうしたの?急に!何かあったの?」

「ううん、両句。➀課長出去了 ②回來之後回您電話。就這両句。」

「へえ∼、どうして?」

「今朝、課長が出かけていたとき、日本から電話があったの。でも、わたしはどう対応すればいいか分からなくて、すっごく怖かったのよ∼!」

わたしは、母に教えてもらった日本語をローマ字で書いて、一晩中暗記し、翌朝、事務所に向かいました。これが、“あ、い、う、え、お”さえ出来なかった、わたしと日本語との出会いでした。
 

このアルバイトで日本語に触れたことで、私は、日系の貿易会社に入ることができました。会社で唯一、少しだけ日本語ができたわたしは、自分の仕事以外に、日本語の翻訳、通訳もしました。貿易の仕事がおもしろいし、英語も日本語も活用できるし、わたしは楽しく充実した毎日を過ごしていました。
 

しかし仕事をしているうち、自分の日本語能力に満足できなくなりました。そこで思い切って会社を辞めて、東京へ日本語を習いに行く決意をしたのです。
 

一日も早く日本語がマスターできるように、わたしは必死に勉強し、たった8ヶ月で、一級の日本語能力試験に合格しました。翌年4月、大阪の貿易会社に就職しました。日本で生活しているうち、日本語はもちろん、日本の文化や文学にも興味を持つようになりました。そして、何よりも日本人の友だちができたことが一番幸せでした。
 

台湾に戻ってからも日本語を忘れたくないという思いで、日本語クラブに入りました。当時は軽い気持ちでしたが、先輩方の活き活きとした日本語や和気あいあいとした雰囲気に惹かれて、いつの間にかクラブが大好きになっていました。25 年間続けることができて、多くの皆さんと出会えたことは、私にとって、かけがえのない宝物です。
 

今、振り返ると、“若き日に恐る恐る取ったあの電話”がきっかけで、わたしの日本語人生が次々とつながって、今日まで歩んできました。
 

“あの日の電話”は、まさに私の“日本語人生の扉”だったのです。私の人生を大きく変えた

“あの電話”を、私は永遠に忘れることはないでしょう。

 

皆さん、人生には予測できない運命の瞬間があります。どんな小さな出来事も、大切にして生き
 

てください。皆様の運命を変える電話が、いつか必ず鳴るはずです。

 

 コンテスト マスター



 

 
 


各位、

請回想看看在你生命中決定你命運的那一刻。
 

對我來說,那一刻是“一通電話”。
 

正是這通電話將我帶進了日語的世界。

這件事發生在我大學二年級暑假期間在一家日本公司打工的時候。

有一天,

在我打工的辦公室裡,ringring~ 電話鈴聲響起。

那天辦公室里只有我一個人。 “我該怎麼辦,我該怎麼辦?緊張而發抖地盯著電話

心臓噗通噗通地鼓動著、害怕地拿起聽筒。
 

這是來自日本的電話。 我很困惑地說:“不好意思,他們都不在。

 茫然間,我聽到電話掛斷的聲音。 鬆了一口氣,邊撫胸口,邊慢慢地把聽筒放回去。
 

那天晚上回到家,我向母親求助。

“媽媽,教我日語~。”

“好啊,發生了什麼事?怎麼突然想起要學日語? 到底發生了什麼事?

“沒有啦,課長出去了 ② 回來之後回您電話 這二句。”

“咦~,為什麼呢?”

“今天早上課長出去的時候,日本來了電話、但是我不知道應該如何回應!嚇死我了!
 

我用羅馬拼音寫下了母親教我的日語,背誦一晚,第二天早上就去了辦公室。

。這是連50音都不會的我和日語的初相遇。

由於這兼職工作與日語有所接觸,我得以進入一家日本貿易公司。
 

我是公司唯一一個稍微會講日語的人,除了我自己的工作之外,我還負責日語的翻譯工作。 貿易事務很有趣,也可以有効地運用英語和日語,我過著快樂而充實的毎一天。
 

但是,伴隨著工作,我對自己的日語能力不再滿意。 所以我毅然決然地辭掉工作,去東京學習日語。
 

我廢寢忘食地學習,以便儘快掌握日語,在短短8個月內,通過了一級的日本語能力測試
 

次年4月,我進入了大阪的一家貿易公司上班。

 在日本生活期間、日語當然不用説,我對日本文化和文學也產生了興趣。 最値得開心的是我結交了許多日本的朋友。


回到臺灣,因不想讓自己的日語退歩,我加入了日語演説會。 當時,是以随性的心情加入,但在接觸到前輩們生動活潑的日語和洋溢著歓樂氣氛的活動、不知不覺地,我深深地喜歓上了日語演説會。
持續了25年,遇見這麼多日語朋友,對我來說是不可替代的另一種財富。


現在回想起來,“年輕時害怕地拿起的那通電話”為我引薦了日語的生活、直至今日。

 
“那天的電話”的確是我的“日語人生之門扉”。我永遠不會忘記那一通改變了我人生的電話。
 

各位,生活中有不可預測的命運時刻。 無論多麼小的事情,都請要珍惜它。
 

改變你命運的電話總有一天會響起。

 

 主持人