忘れられない事 成功日本語 陳碧霞
私は瑞芳の片田舍で生まれました。父が警察なので日本人達と一緒の宿舍に住みました。そして瑞芳の小学校に入り、学校は坂道の上なので、私は毎日線路を越えて坂道の上の学校で勉強しました。父が又基隆に転勤したので、今度は基隆の双葉小学校に入り始めてなれない環境なので、朝会の時、他の組みの列に並んで失敗した事がありました。間もなく父は瑞芳に返って、私はそこで卒業しました。兄が私に台北の三高女に受驗を勸めて、運よく合格、兄は発表の日台北に行って私の受驗番號(350竹田和子)の名札を見て早速吉報を知らせてくれました。

私はとても嬉しかったのですが、家が遠いので学寮に入らなければなりません。母が荷物を片付けて、私は父と一緒に学寮で手続を終えて、父が帰る時、さすがに父母のもとを離れた事のない、私は父の後姿を見て泣きました、夜汽車の汽笛を聞くと胸が一杯でした。

こうして2年生に上がった時、忘れもしない、大きな病気にかかったのです、毎日発熱し、父はとても心配で当時父は汐止の山の中の派出所の主任で宿舍の前は川が流れて、交通不便で車は台車です。父は私を負んぶして、丸木橋を渡って台車で汐止の医者にかかる事数回、やっと私の熱は下りました。病後は母が一日一匹の鶏に漢方薬をつけて私の青ざめた顔が回復するまでの栄養で今の私は今日の様な健康になったのもひとえに母のお陰です、とても感謝しております。

その後教員の試験に合格し43年の教員生活を終えて退職しました、教員生活の中で一人の啞の子を教えた事がありました。特種教育を受けた事のない私は家長の無理矢理の要求を断り切れず、このおしの子を教えました。

この子は張昭儀という名前でとても可愛く頭も耳も聡いので、私は授業中出来るだけ口を大きく開けて口の形を見せて、そして歌と踊りもこの子は音感がよく私のオルガン通りに合わせて踊るのです。終わった後は生徒が拍手喝采です、子供はとても嬉しそうな表情です、そして私は教育局から、表彰状をもらったのがとても光栄でした。

数数の思い出が走馬灯の絵の様に浮かび、父が私を負んぶして、丸木橋を渡って医者にかかった事は永久に忘れられません。

今は主人と二人で老後の生活をカラオケや老人大学で毎日を楽しく過ごしております。孫が今年台大医学院を卒業して、勉強好きな孫の卒業を祝福し、将来立派な医者になることを願っております。


往事難忘
我的出生地是瑞芳的一個偏僻鄉村,父親的工作是日治時代的警察,自小生長於日本人住宿的警察宿舍,小時候就讀於日本小學,每天都要越過火車的鐵軌到山坡上的學校上學。不久父親轉調到基隆市,我也轉學到基隆雙葉小學就讀。曾經為了不習慣於讀書環境,引起朝會時排錯位置而困窘。不久父親又調回瑞芳,我就能夠從原來的小學畢業。我的大哥幫我報考台北第三高女,放榜的日子大哥幫我打聽消息,從榜上發現(350竹田和子)的名字時,馬上回家報喜。

我雖心喜若狂,但學校距家很遠,必須住宿,母親幫我整理行李,父親帶我到宿舍辦好手續,當父親回家時,不曾離家外宿的我,竟捉住父親的手,放聲哭起來,從此以後,每聽見火車汽笛,便忍不住眼淚直流。

剛升上二年級的時候,得了一場畢生難忘的大病,連日發燒使得父親心疼如割,當時父親服務於一所深山的派出所,擔任主任,宿舍前面有一條河流,沒有汽車來往,外出只靠小鐵道的台車,要給醫生看病都要父親背在背上,走過獨木橋,坐著台車到汐止診所治病。如此千辛萬苦找醫生診治好幾次,好不容易退燒了,病後靠母親每天一隻雞配著漢藥熬煮,把我蒼白的臉,瘦小不堪的身體,把我的一身補得到現在還保持健康身體,這都是媽媽的愛,所賜給我的結果。我將銘記一生,永不忘記。

後來我已考上教員,很快地服滿43年,結束了教師工作,進入退休教師的生涯。回顧我的教師生涯,永難忘懷的經驗,是擔任一位不能說話的啞生。原來未曾接受特殊教育專業訓練的我,不敢接受這份職務,但由於家長的一再懇求,後來我壯著膽子勉強接受,教導這項任務。

這個孩子叫作張昭儀,她長得非常可愛頭腦好,耳朵也靈敏。上課中我盡量張大口形,把理想的發聲口型示範給他看,練習唱歌與跳舞,他的音感和節奏感都相當不錯,能夠和著風琴好好地跳起舞來。引起同學們班熱烈的拍手喝彩,他也非常高興,連我都由教育局領到一張表揚的獎狀,覺得很光榮。

當我回顧過去的一生,用演講表達出來的時侯,一幕幕的回憶如同走馬燈似地浮現。特別是被父親背在背上走過獨木橋,這一幕已深刻在腦海中,無法忘懷。

現在每天都和我的老伴悠在悠哉,唱卡拉OK,到老人大學念日文,日子過得很快樂。尤其長孫認真讀書,祝福他今年已畢業於台大醫學院,但願將來他能成為有益於國家社會的好醫生。